長崎原爆投下75年、満州柏崎村開拓団への献花

8月15日の終戦記念日に向け、6日には広島への原爆投下、そして今日9日には長崎への原爆投下の式典が行われました。なぜ長崎にも原爆が投下されなければならなかったのか、については今になっては真実を知ることは難しいかもしれません。戦争をやめさせるために必要なことだったのか、についても検証はできないでしょう。しかし、事実として唯一の被爆国ということだけは残りました。

ものの本には実は新潟も原爆投下都市の候補の中に入っていたと記されていました。しかも最終候補4都市の中の一つとして。柏崎市にも長岡市にも模擬原爆が投下されています。もし、…とは考えはしませんが、広島と長崎のことは当事者としてそれぞれの地域のこと、犠牲になった方々のことを受け止めなければならないと思います。

柏崎市ではこの時期に市長が代表して毎年献花しているところがあります。「満州柏崎村開拓団」の碑です。それは柏崎市博物館の入り口の前にあります。第二次世界大戦中に柏崎が満州に柏崎村を造ろうとした歴史の事実があるのです。その解説、まちしるべNo.46 白亜双柱の塔(満州柏崎村の塔)として以下が記されています。

柏崎村開拓団は、旧満州国三江省(現・国竜江省)通河県にありました。太平洋戦争中の1942年に国の政策のもと、市の要請に応えて新たな柏崎村を開拓することを夢みた総戸数45戸206名が満州に入植しました。1945年8月8日に旧ソ連の対日宣戦布告、満州侵攻により多くの残留婦人、残留孤児を残しながらの過酷な逃避行を余儀無くされ、多くの人が亡くなりました。この塔は満州で命を落し、日本へ帰郷出来なかった人の鎮魂と平和を願い1986年7月、日本海から中国を望むこの地に建立されました。

私も献花させていただきました。戦争は正義対悪の戦いではありません。正義対別の正義の戦いです。今から80年以上前の日本の状況、その時の軍の上層部の判断、そして事実として行われたこと、などについては今になって正しかったとか間違っていたとかの評価はできるかもしれませんが、その当時は、それなりの立場の人がそれなりの責任のもと、下した判断ですから、現代の私たちはそれを受け止めるしかありません。そして、その行動のもとで命を落とされた人が大勢いたということも事実です。私たちは同じ過ちを繰り返さないためにも歴史から学ばなければなりません。

投稿者: shigeno