市教育センター研修(人権教育、同和教育)

教員を辞め市議会議員になってから毎年のことですが、柏崎市教育センター研修に今年度もいくつかの講座で参加させていただこうと思い、先日申し込みました。今日はその申し込んだ講座の中で最初の研修でした。「人権教育、同和教育」についてです。この講座には毎年参加しているのです。教員時代から、この「人権教育、同和教育」については指導法はもとより、本質的なところの理解を自分自身、必要だと考え、取り組んできました。教員として子どもたちを指導する立場だから必要なことではなく、日常生活において、近所づきあいをしたり、友人同士の付き合いの中でもこの感覚は必要不可欠なものであると思います。最近は「ハラスメント」という言葉から人権侵害についての意識が広がってきてはいるものの、「同和教育」と絡めての人権感覚の醸成はまだ十分とはいえないように思います。ちなみに、新潟県教育委員会としては、「同和教育を中核にした人権教育を推進する」としています。つまり、「同和問題の解決なくして、人権が真に尊重される社会は実現しない」ということです。

昨年度も参加した講座ですのでこのサイトにも記してありますが、今日学んだことのいくつかをいかに記します。

  • 「差別」の対義語は「尊重」です。
  • 同和問題の悪とは、生まれ育った故郷や住んでいるところで、人の値打ちを決めつけること。同和問題はつくられた差別である。
  • 障害者差別解消法には、不当な差別をすることを禁止する「する差別」と、合理的配慮の提供をしないことを禁止する「しない差別」が含まれている。
  • 歴史的事実は普遍だが、歴史的見解は史料の発見や歴史研究の進展で変わるものである。「士・農・工・商・えた・ひにん」はヒエラルキー的なものではない。
  • 柏崎市には、昭和3年時点で、司法省調査によると、被差別民684人、で県内3位であった。少数散在型である。だから、柏崎市内に被差別部落がなかったというのは間違い。
  • 「被差別部落の人たち罪人起源説」「差別語や賤称語の軽率な使用」「寝た子を起こすな論」に対しては論破していかなければならない。
  • 「えた・ひにん」という言葉は差別を目的につくられた言葉であるという認識をもつと、軽率に使うことなどできなくなるのでは。
  • 「差別されるからかわいそう」ではなく、「差別する人の心が悲しい」という加差別=不幸、となるような意識の変革を。
  • 「無知こそが差別の始まりである」ので、学ぶことが何より大事。
  • 「差別する自分になっていないかという内省」「差別を見逃していないかという意識」「差別を許さないという決意」。

日本には昔からこの「同和問題」が差別の根底にあったという歴史があります。日本特有の問題で、外国にはこういう差別はないのではないかと思います。しかし、外国には肌の色や民族としての差別があり、そういうことは日本人には理解しにくいものかもしれません。つまり、日本だけでなく、世界中で様々な人権問題が存在し、その解決に国や地域全体が本気になって取り組んでいるのです。実際に差別により命を落とす人もいる現状があることから、この人権教育、同和教育により人権尊重の心を育むことが「命の教育」の一つになっているのだと思います。学校ではこのように指導をしていますが、家庭でも関心をもち、親として大人としての知識をもつことで、家庭や地域での人権教育、同和教育もぜひ推進してほしいと思います。

投稿者: shigeno